長尾景春〜下剋上に生きた諦めない男の生き様〜
長尾景春という人を知っているでしょうか?
高校日本史レベルでは名前だけ軽く登場するという人です。
時代的には関東が荒れていた時代、15世紀後半頃に生きた人です。
今回は長尾景春について書いていきます。
1.山内(やまのうち)上杉家時代
そもそも、室町幕府の統治体制は、関東は鎌倉府に任せるという方針でした。
鎌倉府には鎌倉公方がいて、足利尊氏の息子が代々継いでいました。
その鎌倉公方の補佐をするポジションだったのが上杉家です。
上杉家にも分家がたくさんありましたが、本家筋にあたるのが山内上杉家でした。
その山内上杉家の家宰(No.2のポジション)だったのが、長尾景春の父親です。
ところが、山内上杉家の当主が山内顕定(あきさだ)に代わると、長尾景春が家宰の地位を継げないという人事が行われました。
こういう経緯があり、長尾景春は上杉顕定を裏切り、対抗勢力である古河公方(こがくぼう)の足利成氏(しげうじ)の味方をすることになります。
ちなみに、鎌倉府というのは滅ぼされていて、この頃にはもうありません。
ただ、鎌倉府再興を掲げて、足利成氏が下総の古河を本拠地に古河公方を名乗っていたのです。
2.太田道灌との戦い
上杉家の分家に扇谷(おうぎがやつ)上杉家がありました。
この扇谷上杉家の家宰だったのが、かの有名な太田道灌(どうかん)です。
東京に今でも道灌堀というお堀が残っています。
太田道灌は長尾景春の兄貴分的なポジションで、二人は幼少期に同じ寺で学んでいたこともありました。
長尾景春が上杉顕定を裏切る際、太田道灌と会っており、訣別しています。
道灌はあくまでも上杉家を支えながら関東を統一する道を選んでおり、景春の主君を裏切るという思想とは相容れなかったのでした。
さて、景春と道灌はその後戦っていますが、景春は連戦連敗です。
景春がやろうとすることは、全て道灌に見透かされ、対策されていました。
やがて、山内•扇谷両上杉家と古河公方側が和睦を結ぶという事態になり、景春ははしごを外された形になります。
そんな中、景春は一人の男と出会います。
3.北条早雲との出会い
北条早雲、小田原を拠点とする北条氏の礎を築いた男です。
一般的に下剋上の先駆けとも言われる北条早雲は、先を見据えていました。
つまり、関東の統一です。
景春は北条早雲の思想に共鳴し、共に力を合わせて関東の統一を目指すのです。
ここで、それまでは協力していた扇谷・山内両上杉家ですが、仲違いします。
ということで、また関東に波乱が巻き起こります。
太田道灌との出会い、北条早雲との出会い、そして長尾景春というちょっとマイナーだけれども諦めない心は後醍醐天皇並みかそれ以上の男の人生を読むなら、この小説がオススメです。
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