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豊臣秀吉の小田原攻め〜天下取りへの最後の一歩〜

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今回は豊臣秀吉小田原城攻めについて書いていきます。

 

1.それまでの過程

 

1582年の本能寺の変の後、豊臣秀吉が天下取りに名乗りを上げ、各地の戦国大名を恭順させていきました。

 

徳川、長宗我部、島津など、名だたる大名を従えた豊臣秀吉に対して、未だに恭順を示さないのが、仙台の伊達と小田原の北条でした。

 

1590年、満を持して豊臣秀吉小田原城攻めが開始されます。

 

2.あの上杉謙信も落とせなかった小田原城

 

かつて小田原城軍神と呼ばれる程の戦上手である上杉謙信に攻められましたが、1ヶ月ほどで撤退させています。

 

かつての成功経験が想像力を欠如させるということがあります。

 

北条側には、今回の豊臣秀吉の小田原攻めもどうせ1ヶ月ぐらいで兵糧が底をつくだろうという慢心がありました。

 

そのため、北条側は籠城し最後まで秀吉に刃向かうことを選択します。

 

ところが、策士の秀吉が対策を講じない訳がありません。

 

3.秀吉の作戦

 

以前までの戦では、兵糧は各兵士がそれぞれ自分の食糧を持ってくることになっていました。

 

ただ、人間の持てる重量はだいたい決まっていますので、だいたい1ヶ月分ぐらいの食糧しか持って来られないのです。

 

秀吉は兵糧を集める専門部隊を創設し、船で小田原まで運ぶことで、1ヶ月ぐらいで兵糧が底をついてしまうという問題点を解決しました。

 

このことからも、秀吉が過去の戦をきちんと研究していることが読み取れますね。

 

秀吉は出世エピソードからも分かるように、かなりの努力の人です。

 

こういう所からも彼のその努力は伝わってきますね。 

 

秀吉は小田原城をまともに攻めると被害が大きくなるということで、心理的、精神的に追い詰める作戦をとりました。

 

それが、小田原城よりも高い位置にある石垣山に城を造るということです。

 

この城は、いわゆる一夜城と呼ばれますが、実際は一夜で造った訳ではありません。

 

ただ、木の陰でこっそりと造っていて、できてから木を一斉に切り倒したため、籠城している北条側からすれば、一夜で大きな城ができてしまったと感じるのです。

 

これによって、心理的に追い詰められた北条側はやがて降伏することになるのです。

 

まさに豊臣秀吉の作戦が光った出来事です。

 

ちなみに、城を造るにあたって、以前紹介した黒田官兵衛(当時は既に隠居中)も呼び出されて協力しています。

 

黒田官兵衛についての記事はこちらから。

竹中半兵衛と黒田官兵衛〜豊臣秀吉を支えた軍師〜 - 1億2700万人のうちの誰かのために

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