加藤清正にまつわるエピソード〜秀吉への義理を果たした忠義の武将
今回は加藤清正(1561〜1611)にまつわるエピソードについて書きます。
ちなみに、持っておくと良い時代感覚として、桶狭間の戦いが1560年であることを知っておくと便利です。
清正もそうですが、1560年以降に生まれていますので、信長や秀吉、家康などより一世代後の人物だと分かります。
1.豊臣秀吉子飼いの武将として
幼い頃に父親を亡くした加藤清正は、親戚筋にあたる豊臣秀吉の元で子飼いの武将として活躍しました。
秀吉も清正のことを実の子のように可愛がっていたようです。
本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は一気に天下取りに向かいます。
その過程で倒さなくてはならないのが、織田信長配下の武将として、しかも秀吉よりも格上の柴田勝家を倒すことでした。
これが、賤ケ岳の戦いです。
清正はこの時、大活躍し、賤ケ岳7本槍の1人と呼ばれることになります。
2.肥後の大名として
さて、肥後国(熊本県)で反乱が起きた際、清正は秀吉に「武力だけではなく慈悲で民を治める大切さ」を説き、肥後国の統治を任されます。
この時に清正は治水や農業振興に手を尽くし、農民のことも考えた政策を行ったことから、現在でも熊本県ではとても慕われているようです。
もし熊本県の方がこの記事を見ていれば、現地での清正の評判をコメントで教えて下さい。
熊本城も清正の頃に改築されあれだけ立派なものになりました。
3.朝鮮出兵での活躍
よほどやる気に満ち溢れていたのか、朝鮮半島を超え満州の方まで攻め入っています。
やる気あり過ぎやん!!
4.関ヶ原の戦いに際して
1598年、父のように慕っていた秀吉が死にました。
この時、清正は豊臣秀頼をずっと支えていくことを心に決めます。
「家康殿も自分と同じ想いなんだ!!」と思った清正は、関ヶ原の戦いに際して家康側につきます。
ちなみに、関ヶ原の戦いは正確には豊臣家の家臣の内部争いですので、清正がこの時に豊臣家を裏切ったという訳ではありません。
5.牙を剥く家康
ところが、関ヶ原の戦いが終わると家康は野心を隠さなくなります。
1603年に征夷大将軍に任命されると江戸に幕府を開き、秀頼側から見れば勝手なことをどんどんと行い始めました。
1611年、ついに家康は秀頼に対して二条城に挨拶に来るように求めてきます。
挨拶に行くということは臣下の礼をとるということです。
当然、秀頼としては納得できないことですが、清正は挨拶に行くよう進言します。
「もはや秀頼様が生き残り豊臣家を存続させる道はこれしかない」
確かに、当時の趨勢としては江戸幕府が絶大な力を持っていましたので、この頃の家康に逆らうと滅ぼされかねません。
また、家康の方も邪魔な豊臣家を消そうとあれこれ考えていたはずです。
それを読んだ清正の判断は素晴らしいですね。
6.二条城にて
「もし秀頼様に何かあれば家康と刺し違える」覚悟で清正は秀頼の護衛につきました。
下座に座る秀頼に対して家康は上座に来るよう勧めてきます。
これを罠だと見抜いた(家康と同じ上座に座るということは、すなわち、徳川家に降らない=反乱の意思ありということ)清正は、秀頼を制止します。
こうして、二条城での家康と秀頼の会見は無事に終わったのでした。
「これで、秀吉様の恩に報いることができた。豊臣家は安泰だ」と安心した清正は、肥後国へと帰る途上の船で病気で倒れ、やがて亡くなります。
その後の歴史はこうです。
方広寺鐘銘問題、方広寺の鐘に書かれた「国家安康」という言葉について、「家」と「康」を切り離しているのがけしからんということで、大阪冬の陣が始まります。
言いがかり中の言いがかりですよね。
よくこれがまかり通ったなと思いますが、、、
やがて秀頼はその後の大坂夏の陣で自刃することとなり、豊臣家は滅びてしまうのです。
もし、加藤清正がもう少し長生きしていれば、豊臣家も存続していたのではないかと思えてなりません。
秀吉の死に際して他の武将は誰に付くのか揺れ動いた中、最後まで豊臣家及び秀頼に忠義を尽くした加藤清正はまさに忠義の武将と言えるでしょう。