大久保利通の人生を追いかけてみた
私はちょうど大久保利通の生まれ故郷と終焉の地のどちらにも行ったことがありますので、それを紹介していきたいと思います。
生まれ故郷の鹿児島にある銅像
1.大久保利通のイメージ
大久保利通のイメージはどういうものでしょうか。
日本ではどちらかというと西郷隆盛人気が高いので、その西郷隆盛と最後に対決することになった大久保に対しては、あまり良くないイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。
私はそうでした。
判官贔屓という言葉もあるように、後の時代の人は負けた側を応援しがちですから。
2.大久保利通の生きた時代
しかし、大久保利通の生きた時代は日本史の転換点であり、激動の時代です。
日本がヨーロッパ列強諸国に食い物にされないように富国強兵、殖産興業に励んでいた時代です。
そんな中で日本国内の体制を整えるために、幼い頃からの友達であり盟友の西郷隆盛とも方向性の違いから訣別しました。
私情を捨て日本のために動いていたのです。
3.内務卿として権力を握る
大久保利通は内務卿として権力を握りました。
内務卿とは、様々な職務を司りますが、警察権も握っています。
国家を掌握するにあたり、警察権をにぎっているということは大きな要素です。
実際、旧共産圏の共産党は警察権を有していたため、独裁的な政治が可能になったのですから。
大久保利通も警察権を司り権力を握っているので、独裁的だという批判はやむなしでしょう。
それでも、彼の最期は気の毒でなりません。
4.出勤途中に暗殺
大久保利通は皇居への出勤途中、東京の紀尾井坂で暗殺されました。
紀尾井坂の清水谷公園には現在も慰霊碑が建っています。
どうやら大久保利通のことを腐敗した政治家だと勘違いして暗殺したようなのです。
でも、実際は違いました。
私財を投じてまで日本の未来のため、教育に投資していたような人なのです。
確かに、独裁的な政治を行っていたかもしれませんが、お金には清廉潔白だったようです。
そういうクリーンな政治家だからこそ、私は日本のために憎まれ役を買って出た大久保利通には尊敬の念を抱くのです。
紀尾井坂の変が起きたのは1878年、1877年の西南戦争の翌年のことでした。